今参局

今参局(いままいりのつぼね)
   生年不詳         大館満冬の子に生まれる。

                  通称:御今参、御今上郎(臈)など

                  院号法名:摂取院寺峯祥仁

                  将軍足利義政の信任が厚かった女性

                  世人から烏丸資仁・有馬持家と並び「三魔」と呼ばれるほど権勢を振るっていた。
                   →大乗院尋尊大僧正「当室町殿ヲ守立申ハ此局なり」とも」評す

                  義政が八才で将軍職継承すると幕政に介入
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                  権勢が義政生母日野重子を超えており、公卿大臣は競って今参局に賄賂を贈った。

   宝徳三年(1451年)   七月 尾張守護代織田敏広に替えて織田郷広を推挙したことから、重子の嵯峨隠居騒動が起きる
                      →義政が今参局を御所から追放し、重子は洛中居住禁止を提案
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                            この事件からまもなく殿中に復帰したと思われる。

   長禄三年(1459年)   正月 日野富子男子出産(義政初子)→死産
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                        原因が局の呪詛によるものとの風評を義政に吹込む者がいて琵琶湖沖島に配流
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                  十九日 侍所京極持清が護送中、近江国甲良庄で死罪の命が届く
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                                    甲良寺にて自ら切腹・・・右手で刀を持って腹をさし左手を添えて快ったが、
                                                   最後まで正気を失わない気丈さを見せたと伝える。

                                     ※死罪・・・日野重子の申沙汰によるもの

                  二月 「御今参同意の衆」と言われる大名の娘たちが御所から追放される。
                       →今参局による一連の呪詛騒動は、事実無根のものであり、背景に若い将軍義政をめぐる
                         公卿出身生母日野重子―正妻富子派と今参局を盟主とする武家出身の愛妾たちとの、
                         殿中女官党派閥闘争と考えられる。
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                        この騒ぎにより、義政も上記のことに気付き、今参局の所領没収は取り消しになり大館氏に与えた。

   寛政四年(1463年)    六月 近江国寿千寺領に越中国三宮跡を、今参局追善料所として寄進

                       ・「大館持房行状」・・・今参局の霊は天王として御霊社に配祀したとも伝える。

                       ・「碧山日録」・・・今参局を「大相国(義政)の嬖妾某氏」記されているが、
                                 同じ大館氏出身大館佐子と混合したものと思う。