・脇屋義則(よしのり)
文和四年(北朝)・正平十年(南朝)〔1355年〕 脇屋義治の子に生まれる。(一説に脇屋義助とも・・・)
母:新田桃井貞職娘
名:義隆・義睦などで確定できず
幼名:又次郎または次郎
幼時、信濃大河原城に潜伏していたと伝える。
建徳・天授年間(1370〜1381年)
南朝より正五位下相模守に任命される。
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陸奥において、伊達行朝・田村清包らとともに挙兵
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霊山城を本拠地にして、周辺の北党諸氏を戦う
康暦二年(北朝)・天授六年(南朝)〔1380年〕 二月 従四位下陸奥守兼右近衛少将に赴任
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これ以降、新田貞方の助けを得て信夫・白河両郡周辺に転戦
明徳三年(北朝)・元中九年(南朝)〔1392年〕 両朝合体→これ以後、思うように進まず
応永三年(1396年) 関東管領足利氏満に敗れて、地下に潜行し各地で後南朝の挙兵を画策→失敗
同十年(1403年) 箱根底倉で戦傷治療中に敵兵に襲われて戦死
墓所:箱根町底倉
※この戦死の話には他説がいくつかある。
§日が違うもの§
・四月二十五日、五月二日、六月七日、応永十九年六月七日の説
§討手§
・安東隼人介、木賀彦六左衛門尉秀澄などの説