脇屋義助

脇屋義助(よしすけ)
   
徳治元年(1306年)                 新田朝氏の子に生まれる。

                                    職歴:刑部卿→弾正大弼→治部大弼

                                上野国新田郡脇屋に住み脇屋次郎と称す。

   正慶二年・元弘三年(1333年)           五月 兄新田義貞とともに鎌倉攻めに参加し幕府を滅ぼす。

   建武元年(1334年)                  兄義貞に従い入京→建武政府武者所に就任

   建武二年(1335年)                  足利尊氏が鎌倉において建武政権に叛旗を翻すと、
                                    兄義貞とともに討伐する為に東征→竹の下の合戦で敗北

   建武三年(北朝)・延元元年(南朝)〔1336年〕  この年、兵庫湊川において敗北
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                                兄義貞に追随し皇太子恒良・尊良親王を奉じて越前金崎城に入り、北陸経営に専従
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                                斯波高経軍と数年戦うが、勝ち目がないため、美濃梶尾城に逃避
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                                この城も、土岐頼遠らの攻撃を受け、尾張熱田を経由し吉野に帰京
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                                長年の功績を配慮し、刑部卿に任命される。

   暦応三年(北朝)・興国元年(南朝)〔1340年〕   伊予に渡り、四条有資らとともに在地武士を南軍に引き込むため努力

   康永元年(北朝)・同三年(南朝)〔1342年〕    五月 伊予国府で病没